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【ミスタードラゴンズ】立浪和義の実績&面白エピソード!ミスター二塁打はおれだ!

【ミスタードラゴンズ】立浪和義の実績&面白エピソード!ミスター二塁打はおれだ!

立浪和義は元プロ野球選手で、中日ドラゴンズで活躍しました。彼は高校時代に甲子園春夏連覇を達成し、ドラフトで中日から1位指名を受け入団しました。彼はプロデビュー年に新人王とゴールデングラブ賞を獲得し、22年間にわたり中日の中心選手として活躍し、「ミスタードラゴンズ」と呼ばれています。彼はNPB史上最多の487二塁打と2480安打を記録しました。彼は現役引退後、野球殿堂入りし、中日ドラゴンズの監督を務めます。

プロ入りの経緯

1985年:高校1年、立浪和義はPL学園高校に入学しました。彼はKKコンビに触発されただけでなく、幼馴染の橋本が先に進学を決めたこともあり、憧れのPL学園に進学しました。彼の同期には片岡篤史、野村弘樹などがいました。高校2年生の時、桑田真澄と野球部の合宿所で相部屋になりました。

1986年:高校2年、立浪は選抜高等学校野球大会に出場しましたが、初戦で敗退しました。

1987年:高校3年、立浪はPL学園の主将として選抜甲子園大会と夏の甲子園選手権大会で春夏連覇を達成しました。この成功により、彼の名前はドラフト指名候補に挙がりました。ドラフト会議で中日ドラゴンズと南海が1位指名で競合し、中日がくじ引きで交渉権を獲得しました。

立浪は中日との入団交渉を行い、背番号の候補として3と5を提示されました。彼は一桁の背番号で一番格好いいと思い、3を選択しました。

中日ドラゴンズ時代

プロ入り後、立浪は、高い評価を受け、一軍で遊撃手としてデビューした。1988年の開幕戦では高卒新人として球団史上初の先発出場を果たし、二塁打を放つなど活躍した。同年のオールスターゲームにも選出され、新人王とゴールデングラブ賞を受賞した。彼の守備や走塁の技術は高く評価され、中日のリーグ優勝に貢献した。しかし、右肩の怪我に悩まされ、シーズン終了後には手術を検討するも見送られ、回復のために筋肉を鍛えることになった。

1990年:プロ3年目には開幕戦で本塁打を放ち、遊撃手として128試合に出場し、打率.303を記録した。彼のプレーは自信につながり、シーズン終了後には結婚し、長女が誕生した。

1991年:4年目、監督推薦で初めてオールスターゲームに参加し、野茂英雄から三振を喫した。同年、星野監督が辞任する。

1992年:5年目、高木監督に頼み、遊撃手から二塁手に転向。しかし、前腕の怪我を負いながら開幕戦に出場し、記録を残していく。チームは最下位に終わった。

1993年:6年目、守備で無失策の連続記録を更新し、シーズン終了まで継続。16本塁打を記録するが、この記録は後に破られることはなかった。

1994年:7年目、無失策記録が712回で止まり、自身の監督とコーチが記録した数字を上回った。優勝決定戦で負傷退場し、左肩の脱臼の後遺症を抱えることとなった。

1995年:8年目、自身初のサヨナラ本塁打を放ち、2度目のゴールデングラブ賞を受賞。3年連続で二塁手部門を受賞した。

1996年:9年目、星野監督の復帰後、オールスターゲームに選出される。打率.323を残すが、首位打者にはなれなかった。

1998年:11年目、内野陣に新たな選手が加入し、左翼手に転向。特訓を受けながらプレーし、オールスターゲームにも選出された。

1999年:12年目、中日ドラゴンズの選手会長に就任し、内野手としてプレーを再開。開幕戦では勝利打点を挙げ、チームは11連勝するなど優勝に貢献。日本シリーズでも活躍し、打率3割に到達した。

2000年:13年目には1500本安打を達成した。中日の生え抜き選手では史上最高額となる年俸1億9000万円で契約した。

2003年:16年目は、4番打者としてプレーし、2000本安打を達成。ゴールデングラブ賞も受賞し、三塁手としても活躍した。

2004年:17年目は、セ・リーグ新記録となる423二塁打を達成しました。打率は.308で終わりましたが、日本シリーズでは勝利に貢献した。

2005年:18年目は、通算450本の二塁打を達成しました。しかし、故障や打率の低下があり、打順も降格されました。オフにはレギュラー剥奪を明言され、減俸で契約更改した。年俸2億2500万円、1年契約で契約更改した。減俸で契約更改するのは立浪にとって16年ぶりのことだった。

2006年:19年目、三塁手の座を森野と争っていました。しかし、森野の故障によりシーズン前半は三塁手として先発出場しました。代打での出場が主となり、打率3割以上を記録しながらも規定打席には到達できませんでした。シーズン終了後、正三塁手の座を森野に奪われました。

2008年:21年目は不振であり、シーズン終了後に現役引退を示唆しました。2009年:22年目は代打で活躍し、通算1000打点や通算3500塁打を達成しました。

シーズン終盤に正式に引退を表明し、最後の試合で猛打賞を記録しました。その後もいくつかの試合に代打として出場し、引退後は背番号3が一時的に欠番となりました。

立浪和義の人物像や面白エピソード

立浪は、中日ドラゴンズのチームメンバーからは「タツ」という愛称で呼ばれ、井上一樹など後輩からは「タッさん」と呼ばれることもあった。彼は鉄拳制裁で有名な星野監督から怒られることはほとんどなく、「星野政権の優等生」と評されている。

立浪は通算171本の本塁打を記録し、これは日本プロ野球界の通算安打数ベストテンの選手の中で最も少ない数字。200本塁打に到達していない選手の中では唯一の選手です。

立浪は一度もシーズン20本塁打を達成したことがありませんでした。立浪自身も「ボクはホームラン打者じゃない」と語っています。

立浪は日本プロ野球の二塁打記録を持っており、通算487本の二塁打を打ちました。彼のプロ初安打もプロ最終安打も二塁打であり、「ミスター二塁打」という異名も持っています。

彼の応援歌には、ルーキー時代に光GENJIの「ガラスの十代」が使用されていました。また、彼は中日のチーム全体の底上げを図るために、自身が選手会長の時に派閥をなくすなどの功績もありました。

立浪は下戸であり、酒を飲むことはありませんでした。彼自身は、お酒を飲まなかったことが40歳まで現役でプレーできた理由だと考えています。

格闘家のボブ・サップと共演した際に、サップから「体は小さいが、非常にパワーを感じる」と評されました。

ミスタードラゴンズ:立浪和義の実績とエピソード解説は以上となります。

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