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【魔球シンカーで通算313セーブ】高津臣吾の実績&面白エピソード!

【魔球シンカーで通算313セーブ】高津臣吾の実績&面白エピソード!

元プロ野球選手、高津臣吾さんの経歴や面白エピソードについて解説します。

高津は、現役時代、東京ヤクルトスワローズで15年間、メジャーリーグで2年間、プレーしました。

キャリア終盤には、韓国、台湾、日本の独立リーグでもプレーし、計21年間、現役選手として活躍しました。

高津は、サイドスローからの鋭いシンカーを武器に抑え投手として活躍しました。

ヤクルトスワローズの90年代黄金期を支え、4度の日本一に貢献しました。

抑え投手として、NPB歴代2位の通算286セーブ、史上2人目となるNPB/MLB通算300セーブを達成しています。

NPBで、最優秀救援投手のタイトルにも4回輝き、名球会、野球殿堂入りも果たしています。

現役引退後は、ヤクルトのコーチ・監督を歴任しています。

プロ入りの経緯

高津は広島工業時代に、何か特徴が欲しいとスリークォーターからアンダースローにフォームを変えた。

高校時代に春夏連続で甲子園に出場した。

本大会では代打での出場にとどまったものの、広島大会では、4試合に登板して2試合完封し、準決勝でも完投勝利を収めた。

大学は亜細亜大学に進学。東都大学野球リーグで春秋連続優勝し、全日本大学野球選手権大会でも優勝した。

大学2年生の時にフォームを修正し、サイドスローから投げるようになり、シンカーを駆使する投球スタイルを確立。

大学卒業後は広島東洋カープへの入団を希望したが、横投げの選手はカープが獲得しない方針であり、オファーはなかった。

ヤクルトのスカウトが高津の特異な投球スタイルに注目し、1990年のドラフトで高津を3位指名した。

現役時代:ヤクルト入団以降

高津は入団当初は先発投手として期待されていましたが、勝負球に欠ける存在でした。

しかし、1992年:プロ2年目の秋季キャンプで遅いシンカーを習得し、監督の野村克也の指示でその投球スタイルを確立しました。

1993年:プロ3年目にはプロ初セーブを記録し、シーズンを通じてシンカーを駆使した投球が結果を生み出しました。

同年、球団記録となる20セーブを挙げ、2年連続のリーグ優勝に貢献しました。

さらに、日本シリーズでも3セーブを挙げ、胴上げ投手となりました。

1994年:プロ4年目にはセーブ王争いを制し、最優秀救援投手のタイトルを獲得。

1995年:プロ5年目には28セーブを挙げて、再びリーグ優勝と日本一に貢献しました。

しかし、1996年:プロ6年目からは投球が不安定になり、救援失敗も目立つようになりました。

6年目は21セーブを挙げましたが、自己ワーストの6敗も記録しました。

1997年:プロ7年目は抑えとしての結果を残せず、先発でも2連敗を喫しました。

しかし、7月以降は中継ぎとして安定感を取り戻し、抑えに復帰しました。

高津はセットアッパー兼抑えとして登板し、チームのリーグ制覇と日本一に貢献しました。

1999年:プロ9年目には抑え投手として再任命され、30セーブを挙げて2度目の最優秀救援投手に輝きました。

2001年:プロ11年目には自己最高の37セーブを記録し、3度目の最優秀救援投手となりました。

チームもリーグ優勝し、日本シリーズでは4度目の胴上げ投手となりました。

2003年:プロ13年目には、通算セーブ数で佐々木主浩の記録を更新し、3年連続で最優秀救援投手に選ばれました。

プロ13年目のオフに、フリーエージェント権を行使しました。

現役時代:メジャー挑戦

高津投手はシカゴ・ホワイトソックスと契約し、2004年:プロ14年目、メジャーデビューを果たしました。

高津は、クローザーとして活躍し、24試合連続無失点の記録を残しました。

地元メディアからは、「ミスターゼロ」という名誉あるニックネームを貰いました。

監督のオジー・ギーエンもこうコメントしました。

「マリアノ・リベラでも連れてこない限り、シンゴは我々にとって最高のクローザーだ」

2005年:プロ15年目もクローザーとして起用されましたが、序盤に救援失敗が続き、チームから放出されました。

同年8月、ニューヨーク・メッツとマイナー契約を結びました。一時的にメジャー昇格しましたが、オフにはFAとなり、メッツを退団しました。

現役時代:ヤクルト復帰

2006年:プロ16年目にヤクルトスワローズに盟友の古田敦也選手兼監督の下で復帰し、中継ぎ投手として起用されました。

主力投手の故障により、夏場から抑え投手として起用されるようになりました。

10試合連続セーブを達成し、日米通算300セーブを達成しました。

2007年:プロ17年目も抑え投手として起用されましたが、怪我により一時離脱しました。

その後、救援失敗が続き、二軍に降格しました。復帰後は成績が振るわず、シーズン終了後に戦力外通告を受けました。

この戦力外通告は突然で、球団の対応が批判を浴びる事態となりました。

球団フロントからの事前通告や話し合いの機会が一切なく、ファンに別れの挨拶をする機会も与えられませんでした。

鈴木球団社長がヤクルトファンに宛てた謝罪文を球団の公式ホームページ上で掲載する事態にまで発展しました。

高津は現役続行を希望しましたが、「自分にもプライドがある」として、国内球団のトライアウトには参加しませんでした。

その後、2008年:プロ18年目にシカゴ・カブスとマイナー契約を結びましたが、オープン戦での結果不振により戦力外通告を受けました。

その後、ホワイトソックスのテストに参加しましたが、不合格となりました。

現役時代:韓国・台湾・新潟時代

高津は、2008年:プロ18年目、韓国のKBOリーグのウリ・ヒーローズと契約し、防御率0.86と、活躍しました。

しかしながら、チームの外国人の獲得・起用方針により、退団しました。

その後、高津は、メジャーリーグのサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下、台湾の興農ブルズを渡り歩きました。

最終的には、独立リーグの新潟アルビレックスBCに移籍し、選手兼任監督として活躍しました。

高津は最終的に、新潟で、現役引退しました。引退試合では「終球式」が行われ、古田敦也に最後の1球を投げました。

高津は、監督としての成績も優れており、BCリーグで初優勝を成し遂げました。高津の背番号22番は、新潟で永久欠番となっています。

高津臣吾の人物像と面白エピソード

高津は、現役時代、毎年の春季キャンプにて、アフロヘアのカツラを被り、クリスタルキングのムッシュ吉崎の物真似で「大都会」を熱唱するという持ちネタを披露していた。

この持ちネタは、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』で放映され、珍プレー大賞を受賞している。

高津は、現役時代、オールスターゲームで、松井の代打として登場し、投手イチローにアウトを取られたことがある。

以上が、高津臣吾さんの実績とエピソードでした。

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