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【不屈の赤ヘル魂!】広島カープ正田耕三の経歴と面白エピソード

【不屈の赤ヘル魂!】広島カープ正田耕三の経歴と面白エピソード

元広島カープのプロ野球選手、正田耕三さんの経歴や面白エピソードを解説します。(以下、敬称略)

正田は、1980年代と90年代の14年間、広島カープの2度のリーグ優勝に貢献した内野手です。

身長170センチと、プロ野球選手としては、小柄ながら、持ち前の根性と、不屈の赤ヘル魂でプロ野球にくらいつき続けた選手です。

実際に、走・攻・守で、タイトルを取得していて、盗塁王、首位打者、ゴールデンクラブ賞を受賞しました。

そんな、正田耕三の、血と涙と汗にまみれた努力の過程と実績を紹介します。

後半は、高橋慶彦、落合博満など、名だたるスター選手との面白エピソードも紹介します。

ぜひとも、最後までお楽しみ下さい!

正田耕三のプロ入りの経緯

正田は、1962年、和歌山県和歌山市で生まれた

小学生の時に野球を始めて、中学生時代、学童野球で全国優勝を経験した。

旧名は「耕造」だったが、この頃、階段から落ちて足を骨折したのを機に「耕三」に改名した。。

和歌山商業高校に進学し、卓越した守備力で1年の夏からセカンドのレギュラーになった。

高校時代、甲子園出場経験はない。高校卒業後は、社会人野球の新日鉄広畑へ入社。

社会人野球時代、1984年、22歳の時に、ロサンゼルスオリンピックに日本代表として出場。

セカンドを守り、主に1番打者任されて、15打数6安打の成績で金メダル獲得に貢献した。

この年、広島東洋カープからドラフト2位で指名され、プロ入りを果たした。

正田耕三の広島カープ現役時代

1985年、プロ入り1年目、57試合に出場するも、打率.180で全く結果が出なかった。

古葉監督のすすめでスイッチヒッター転向に挑戦する。

正田は、「右で打てないのに、左で打てるわけない」と不安を感じていた。

でも、これでダメなら実家のそば屋を継げばいいと思い、とにかくやれることを全てやろうと、開き直ってスイッチ転向に挑む。

正田は、食事と睡眠以外の時間は、常にバットを振り続けた。打撃コーチの内田も年間350日、朝から晩まで顔を合わせて指導した。

日に日にピッチングマシーンの距離が、どんどん自分に近づいてきて、身の危険を感じていた。というか実際、何度もボールがぶつかった・・・

さらに、バットを手にタオルで括りつけられて特訓に励んでいた。

いまの時代だと、完全にパワハラ事案ですね・・・

1986年、プロ2年目、猛特訓の結果が出始める。90試合に出場し、打率.288の結果を残す。

この年、チームはリーグ優勝を果たした。正田は、ハワイへの優勝旅行にもバットを持参し、練習を重ねた。

1987年、プロ3年目、セカンドのレギュラーに定着。

打率.333で、NPB史上初のスイッチヒッターとして首位打者のタイトルを獲得する。

守備も評価されゴールデングラブ賞も受賞。この年から5年連続受賞する。

1988年、プロ4年目、肩の怪我で出場試合は104試合に留まったが、打率.340の成績を残す。

2年連続で、首位打者のタイトルを獲得。初めてセカンドでベストナインも獲得した。

1989年、プロ5年目、打率.323、の成績を残した。34盗塁で盗塁王のタイトルを獲得。

シーズン終盤に、プロ野球タイ記録となる1試合6盗塁を決めて、32盗塁だった笘篠賢治を超えた。

この年、2年連続でベストナインを獲得した。

1989年から1991年、プロ6年目から8年目は、打率3割前後と安定した打撃と守備でチームに貢献する。

1991年、広島カープはリーグ優勝を果たした。正田もこの年まで、5年連続でゴールデングラブ賞を獲得

1993年、プロ9年目、怪我のため右打席に専念するも、打率.257まで低下する。

この年のオフに右手首の手術を受けた。

1994年、プロ10年目、正田の回復が不確実なので、三村監督が、緒方孝市にセカンドを守らせることを検討する。

正田はギプスを装着したまま練習するほどの執念でセカンドのポジションを死守した。

しかしながら、この年から引退する14年目まで、打率は2割台、盗塁は10以下と低迷し、走りと攻撃では貢献できなくなる。

1997年、プロ13年目、打率.241、盗塁がプロ入り後初めて0に終わる。

1998年、プロ14年目、コーチ兼任となる。

7月にプロ通算1500安打を達成し、8月に自ら引退を申し入れた。

引退後は、広島、阪神、韓国リーグなどで、コーチを歴任した。

正田耕三の面白エピソード

校舎の3階から転落して身長が止まる

中学2年生の時、正田は、掃除の時間に校舎の3階の窓から転落して、地面に叩きつけられた。

幸い命は取り留めたものの、左脚は複雑骨折、右脚は靱帯損傷。左脚は骨が飛び出すほどの重傷だった。

正田は「この時の怪我で、身長が止まった」と話している。

そして、「自分は足のサイズが28センチ以上あるので、この時の怪我がなければ、身長185センチ以上になっていた」と語っている。(根拠は不明)

1.2キロあるすりこぎ型のバットを使わされた

スイッチヒッター転向時、内田コーチにとにかく重いバットを最短距離で、ボールに叩きつけろと指導された。

すりこぎ型のバットは、すり鉢につかう棒、いわゆる「こん棒」のような、バットです。

内田コーチにボコボコにしばかれる

「もうスイッチヒッターをやめたい」と相談に行ったら、ボコボコにしばかれてこう言われた。

「お前がスイッチヒッターを辞める時は、お前が野球を辞める時だ!!」

試合前に高橋慶彦にしばかれる

1988年、正田プロ4年目に正田が肩を痛めていることが新聞報道された。さらに、試合前にも、正田が、痛い痛いと泣き言を言っていた。

むかついた高橋慶彦は、正田に飛び蹴りをくらわした!

試合中に高橋慶彦にキレられる

正田と高橋は、広島カープが誇る二遊間コンビだった。試合中、どちらが2塁に入るかなど、サインを出しあう必要がある。

先輩高橋が、正田にサインを出さないことが何度もあった。

正田は試合中に、「高橋さん!どうしますか?」と聞くと高橋が、「うるせえ!雰囲気で分かるだろ!」とキレられた。

高橋慶彦の倍の素振りをこなす

1987年、正田プロ3年目のキャンプで、高橋慶彦が2万本の素振りを行うと、正田は倍の4万本をこなした。

高橋慶彦に「もんちっち」といじられた

ヒゲをはやしたが似合わなくて避難される

晩年のプロ12年目、突然ひげをたくわえた。

野球中継の解説者から「似合わないからやめた方がいい」と言われる。

落合博満にアドバイスをもらうも全く結果が出なかった

当時、正田は出塁して、中日のファーストを守る落合のところに行く度に、打撃のアドバイスをもらっていた。

「お前は力みすぎだからインパクトまでは力を抜け」と言われ、実践するも、全く結果は出なかった。

実家のそば屋が正田のホームラン特売をやるが不発に終わる

「正田が本塁打を打つと蕎麦を半額にします」と広告するも2年間で1回しか行われなかった。

山崎武にキャッチャーをやめさせた

正田はプロ6年目、1試合に6盗塁を決めた。そのうち、5盗塁は、当時中日キャッチャーの山崎武から奪った。

送球コントロールの甘さと肩の弱さを露呈された山崎は、その試合でキャッチャーをクビになった。

野村謙二郎の早打ちにイライラしていた

正田は、野村謙二郎と1、2番コンビを打つようになった。

チームからは1番、2番はなるべく粘って、相手ピッチャーに球数を投げさせるよう指示を受けていた。

にも関わらず、野村謙二郎が、初球からガンガン打つため、正田が粘りまくるしかなく、常にイライラしていた。

首位打者のタイトルよりも試合出場が優先

プロ4年目、シーズン終盤、正田は、首位打者だった。

タイトルを確定させるため、怪我をしている正田を阿南監督がスタメンから外そうとした。

正田は「タイトルが取れなくても試合に出たい」と直訴した!

引退後、AMAZONの倉庫で仕事をする

正田は、現在、週4日、AMAZONの倉庫で派遣のアルバイトをしている。週3日は、野球のコーチなどをしている。

もちろん立派な仕事だが、晩年、少なくとも3年以上は、1億円以上稼いでいた元プロ野球選手ですよ。

仕事をしていないと気がすまない男、鍛錬を積んでいないと気がすまない男、正田耕三の経歴と面白エピソードでした。

最後までご視聴頂き、本当にありがとうございました。

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