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ビッグボス新庄剛志監督の阪神・メジャー・日ハム時代の実績とエピソード

ビッグボス新庄剛志監督の現役時代の実績&面白エピソード

元プロ野球選手、新庄剛志さん(以下、敬称略)の経歴や面白エピソードについて解説します。

新庄剛志は、元プロ野球選手で、日本で14年間、アメリカで3年間プレーしました。

意外性あふれる打撃、強肩を生かした守備、そして、球場内外での様々な話題提供で、絶大な人気を獲得しました。

日本では、ゴールデングラブ賞を計10回獲得しています。

新庄は、日本人で初めて野手でメジャーリーガーになりました。ワールドシリーズに出場したのも日本人選手初です。

動画で一気見することもできますので、よろしければどうぞ!↓

新庄のプロ入りの経緯

新庄は、1972年生まれ、福岡県福岡市出身。長丘小3年時に、自ら少年野球チームを結成した。

新庄は2日間でメンバーを集め、ユニフォームのデザインや、チーム名命名も担当して「長丘ファイターズ」というチームが誕生した。

このチームは結成後1か月余りで福岡県大会(出場64チーム)の第3位に入賞。

高校は父親からの薦めもあり、西日本短期大学附属高等学校へ一般入学。硬式野球部員として寮生活を送った。

1番センターとして活躍するも、高校時代に全国大会出場は叶わなかった。

1998年、プロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受けた。

阪神スカウトによる新庄の評価は、「打力:B、走力:A、肩力:特選A」。

阪神のスカウトが、高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは、新庄が初めてだった。

新庄は巨人からの指名も期待されていたが、阪神に入団した。契約金3700万円・年俸360万円、背番号は63だった。

現役時代:阪神タイガース

新庄は、1990年:1年目は、腰痛の影響で二軍生活を余儀なくされた。

その後、内野の遊撃手に転向し、1991年:2年目に初の一軍昇格を果たした。

1992年:3年目からは内野手としてプレーした。

シーズン初出場から12試合連続安打や、得点圏打率10割を保った期間の活躍を受けて、次代の「ミスタータイガース」として期待されるようになった。

この頃から、「(虎の)プリンス」と呼ばれるようになった。

この年、前年まで低迷していたチームは最終戦の1試合前まで優勝争いをした。

新庄は、右中間守備コンビを組む亀山努と共に活躍したことから「亀新フィーバー」と騒がれた。

大勢のファン、特に、若い女性ファンに熱狂的に支持された。

この年、打率.278・本塁打11を記録するも規定打席に僅かに及ばず、新人王を逃した。

年俸は520万円から2200万円に大幅アップした。

1993年:4年目、新庄は背番号を「5」に変更した。

10月1日にはプロ初の先発4番打者として出場し、球団史上最年少記録となった。

この年に初めて規定打席に到達し、100安打と23本塁打を達成。

守備ではリーグ外野手最多の13補殺を記録し、ゴールデングラブ賞を初受賞した。ベストナインも初受賞。

1994年:5年目、17本塁打と205塁打を記録した。守備では、リーグ最多の289刺殺を記録し、ゴールデングラブ賞を獲得した。

1995年:6年目は打撃フォーム改造を試みるが失敗し、打率.225、本塁打7本と、打撃成績が低迷。

1996年:7年目は1番中堅で開幕し、その後は6番、7番、4番と打順が変わった。

4試合連続本塁打を含む19本塁打を記録し、ゴールデングラブ賞を受賞した。

1997年:8年目は、キャリア唯一となるシーズン全試合に出場し、20本塁打を記録して4年ぶりの20本台に乗せた。

守備ではリーグ最多の13補殺を記録し、ゴールデングラブ賞を獲得した。

しかしながら、シーズン前半の成績不振にも関わらず、オールスターゲームに出場したことで、ファンから「応援ボイコット」を受けた。

新庄の打席ごとに「新庄帰れ」コールが起きた。この応援ボイコットは、公式戦でも続いた。

1998年:9年目、新庄は6番中堅で開幕し、主に下位打順で起用された。

シーズン中は極度の打撃不振に陥った。シーズン打率.222、本塁打6本、打点27で、全てキャリア最低となった。

しかし、守備ではリーグ外野手最多タイの12補殺を記録し、ゴールデングラブ賞を受賞。

1999年:10年目、新庄は野村監督の発案により、投手としての挑戦を開始。しかしながら、オープン戦の2試合で左膝を痛め、投手挑戦を断念

新庄は故障のためにシーズン初出場が遅れ、左太股の痛みにも悩まされながらプレーした。

この時期から引退まで、常に脚や腰などのどこかに故障を抱えることになった。

打撃成績は前年の低迷からは持ち直し、5年ぶりの打率2割5分台に復帰して14本塁打だった。

年俸は阪神時代最高の推定7800万円となった。

2000年:11年目、シーズン序盤には故障で一時離脱しましたが、その後はほぼ固定された4番中堅として起用された。

2度の4試合連続本塁打、16試合連続安打と活躍。

勝利打点はチーム最多の13回を記録し、本塁打や打点もキャリアハイとなった。

新庄はチーム六冠王に輝き、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞。

MLBへの移籍表明

新庄は、11年目のシーズン終了後、FA権を行使。阪神が提示した条件は、他球団より好条件となる5年契約総額12億円だった。

しかしながら、新庄は、かねてより移籍志望を抱いていたMLBのニューヨーク・メッツへの移籍を決断。

これは、阪神の球団関係者も予想できなかったことだった。

メッツとの契約内容は、契約金30万ドル(当時約3300万円)、年俸20万ドル(2200万円:メジャー最低保障額)プラス出来高払い50万ドル(5500万円)の3年契約だった。

新庄は日本人野手として初めてMLBの球団に所属することとなった。移籍発表の記者会見で新庄は、こう語った。

「やっと自分に合った野球環境が見つかりました。その球団とは、ニューヨーク・メッツです。」

新庄は、この年にタレントの大河内志保と結婚。

新庄にとって、2000年は、公私ともに、新たな船出となった。

メジャー時代:ニューヨーク・メッツ

新庄は、2000年、阪神11年目のシーズン終了後、FA権を行使。

かねてより移籍志望を抱いていたMLBのニューヨーク・メッツへの移籍を決断した。

メッツとの契約内容は、契約金30万ドル(当時約3300万円)、年俸20万ドル(2200万円:メジャー最低保障額)プラス出来高払い50万ドル(5500万円)の3年契約だった。

新庄は日本人野手として初めてMLBの球団に所属することになった。

新庄は、メジャー1年目のスプリングトレーニングで早速注目を浴びる。ニューヨーク・タイムズが「ジェームズ・ディーン(アメリカの有名俳優)がきた」と報じた。

新庄は、オープン戦で活躍し、開幕メジャー入りを果たした。

シーズン序盤は途中出場が目立ったが、徐々に実績を積み重ねてレギュラーとなった。

打順は、1番から7番まで、満遍なくこなした。守備では外野全般をこなし、中堅だけでなく両翼も守った。

新庄はMLB初出場となった4月3日の試合で代走として出場し、初打席で初安打を記録した。

4月9日には、初本塁打を記録。これを機に、メディアが造語である「SHINJOY:シンジョイ」を使い始め、以降、愛称として浸透した。

日本では当たり前だった新庄の行為が、度々、メジャーの不文律に反するとされた。

大量リード時における3ボール-0ストライクからのヒッティング。

ホームラン後のバット投げ、ホームイン時のベースへのハンドタッチ。

相手チームから挑発的と解釈され、報復デッドボールを受けることがあった。

左太股の故障を抱えながらも、6月17日の試合で素晴らしい走塁プレーを見せ、チームに逆転のチャンスをもたらした。

新庄の故障をおしての走塁は「カミカゼ・スプリント」と称されて報じられた。

しかし、その後すぐに肉離れで、故障者リストに入った。

復帰後の試合で新庄は素晴らしい守備を披露し、メディアから「ザ・キャッチ」と称された。

新庄は外野での補殺数12で、リーグ5位となり、新人外野手最多を記録。打撃でも、満塁時の打率.583、勝利打点11と、チームに貢献した。

翌年の年俸は、135万ドル:約1億3500万円となり、初の1億円超えとなった。

メジャー時代:サンフランシスコ・ジャイアンツ

新庄は2002年:メジャー2年目に、トレードでジャイアンツへ移籍した。

シーズンでは開幕から1番中堅手として起用された。

1番打者ということで基本的に早いカウントでは打つなとの指示を受け、打撃不振に陥った。

その結果、7番など主に下位の打順に降格した。

新庄は、オールスターゲーム・ファン投票で100万票以上を得てナ・リーグ外野手部門第4位となった。

新庄は日本人選手として初めてワールドシリーズに出場しました。

ワールドシリーズでは指名打者として起用され、初打席で日本人選手として初の安打を放ちました。

最終第7戦では代打として出場しましたが、結果は空振り三振。チームはシリーズ制覇を逃しました。

オフになると、ジャイアンツは新庄の契約オプションを行使せず、ノンテンダーFAとなりました。

メジャー時代:ニューヨーク・メッツ復帰

新庄は、2003年:メジャー3年目に古巣のニューヨーク・メッツに復帰した。

年俸60万ドル:約6000万円で契約。

複数のオファーからメッツを選んだ理由として、在籍経験があり、好きな都市の球団だったからと述べている。

シーズンではオープン戦で高打率を残しましたが、シーズン中は左内太股の故障に悩まされ、出場機会が減少しました。

この年には、NPB/MLB通算100補殺を達成。

しかし、打撃成績は次第に低迷し、自身ワーストとなる24打席連続無安打を記録。

6月にはマイナーリーグに降格した。新庄はこの年の成績について恥ずかしいと感じていた。

若手選手にチャンスを与えるよう首脳陣に提案しましたが、その提案が消極的な行動と受け取られ、監督との確執が報じられた。

7月にはDFA:戦力外となり、後日、メッツとマイナー契約を結びました。

新庄は、このシーズンをマイナーで終えた。

ただ、マイナーリーグでの経験を通じて、若手選手たちとの交流や昇格への夢に向かって頑張る姿勢から学び、楽しい時期だったと述べている。

オフには再びノンテンダーFAとなり、日米複数の球団からオファーを受けた。

新庄は渡米前から、MLB移籍は、3年間だと示唆していました。

その言葉通り、3年間で、新庄のメジャー挑戦は、幕を閉じました。(日ハム編に続く)

日本球界復帰:日本ハムファイターズ

新庄は、2004年:プロ15年目に北海道日本ハムファイターズに移籍しました。

契約金4,000万円、年俸8,000万円、出来高払い5,000万円の2年契約でした。

新庄の登録選手名は「SHINJO」、背番号は「1」。

入団発表会見で「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」と目標を掲げました。

新庄は、入団初年度からファンサービスに力を入れました。

本塁打時の談話では独特の打法を命名したり、試合前シートノックではかぶりものを着用したりしました。

新庄は、この年、ビッグバン打線の1番として活躍し、北海道日本ハムとしての球団第1号本塁打やNPB通算1000安打を達成しました。

オールスターゲームにも出場しました。出場前の会見で、「MVPは僕のものです」と宣言していました。

第2戦では、単独ホームスチールと二塁打2本を決めて、宣言通り、MVPに輝きました。

ヒーローインタビューでは、「これからは、パ・リーグです」と宣言しました。

日ハムに移籍した2004年、新庄は、打率. 298、ホームラン24本、打点79の好成績を収めた。

球団移転初年度でのプレーオフ進出に貢献し、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得した。

2005年:プロ16年目は1番中堅で開幕して、打順は主に5番で起用された。

甲子園での古巣阪神戦で本塁打を打った際に、打法名「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」と命名した。

この年は、故障による離脱も影響し、規定打席に到達できなかった。

ゴールデングラブ賞を外野手部門最多得票で受賞するが、授賞式を欠席し、このような声明を出した。

「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んでほしい。そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」

翌年の年俸は、キャリア最高額の3億円となった。NPB歴代最高昇給額の2億2000万円増だった。

2006年:プロ17年目、新庄は、「ファイターズ超満員大作戦(43,000プロジェクト)」を掲げ、何かやると予告していた。

新庄は、さっそく開幕戦で、ハーレーダビッドソンで入場。他の先発選手もサイドカーに乗って守備位置へ向かうというパフォーマンスを披露した。

4月18日、東京ドームでのオリックス戦にて、1本目の本塁打を「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と命名し、現役引退を表明。

シーズン早々に、引退を表明した理由は、「1人でも多くのファンに球場へ足を運んでもらいたいから」だった。

引退表明後、マスコミからの注目度は日に日に増し、新庄のグラウンド内外におけるパフォーマンスは「新庄劇場」と言われ、連日報道された。

新庄は、現役最終シーズンで、NPB通算200本塁打、NPB/MLB通算1500安打を達成した。

引退試合・セレモニー

2006年、9月27日、レギュラーシーズン最終戦となる札幌ドームで、この日限定で背番号を「63」に変更。「63」は新庄が、プロで最初に背負った番号である。

引退セレモニーは、日本ハムがレギュラーシーズン1位通過を決めた試合後に行われた。

新庄は、中堅の守備位置から、大型ビジョンに流された野球人生を振り返るVTRを観た。この時、新庄は、帽子の上にグラブを被る、よくやる格好をしていた。

その後、ユニフォーム・グラブ・リストバンド・タオルをその場に置き、涙を浮かべながらグラウンドを後にした。

ユニフォームを脱いで現れたアンダーシャツの背中には、ファンへ向けるメッセージがプリントされていた。

「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしくいくばいっ!」

スピーチは行わなかったが、去り際には大型ビジョンに署名付きの直筆メッセージが表示された。

「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛ける事を 今日この日 みんなに約束します」

球団はこの時点では新庄の引退を認めておらず、セレモニーは球団ではなく新庄自らがプロデュースした。

初出場の日本シリーズで、日本一を達成して引退!

日本シリーズで、日本ハムは4勝1敗で44年ぶり2度目の日本一に輝いた。

新庄は、5試合通算17打数6安打1打点を記録した。10月26日の最終第5戦:札幌ドーム、8回裏、現役最後の打席に涙を流して入った。

中日ドラゴンズ中里篤史からの全3球ストレート勝負を受け、空振り三振に倒れた。

最終回の守備、森本稀哲のフライ捕球により、日本ハムの日本一が決まった。

森本はマウンド方向ではなく打球を追ってきている新庄の方へ向かって走り、両者は左中間で抱き合った。

その後、両者はマウンド付近にできている歓喜の輪へ向かい歩き出すが、新庄は涙を流し、まともに歩くことができなかった。

選手・首脳陣・スタッフ達は、外野へ向かい歩いていき、左中間で新庄と抱擁し合った。

胴上げは、新庄、小笠原道大、田中幸雄、大社オーナー、ヒルマン監督の順に行われた。

新庄は、日本ハム入団会見で掲げた2つの目標「札幌ドーム満員」と「チームの日本一」を共に達成して、ユニフォームを脱いだ。

後日、新庄は、札幌で行われた優勝パレードに私服姿で参加した。日本ハムファイターズ新庄がファンに見せる最後の姿となった。

シーズン中から新庄の引退撤回を求めるファンが署名活動を行い、球団からも引退撤回要請を受けていた。

しかし本人の意思は固く、新庄剛志は、16年間のプロ野球現役生活に自ら幕を閉じた。

新庄剛志の面白エピソード

幼少期からBIGだった

新庄は生まれた時、体重が3680グラムあり、生後10か月で歩きだした。

福岡市立長丘小学校時代に8回の交通事故に遭うが、いずれも大怪我は負わずにすんだ。

しかし、中学校時代の授業中、左手人差し指切断寸前の大怪我を負った。

新庄は、もし右手だったたなら間違いなくプロになれなかったと語っている。

亀新フィーバー

新庄のプロ3年目、右中間守備コンビを組む亀山努と共に大活躍して、阪神ファンを熱狂させた。

それまで5年間で最下位4回と低迷していた阪神が、終盤まで優勝争い、6年ぶりのAクラスを果たした。

当時、新庄が、入寮していた球団寮へ届く新庄宛のファンレターは、1日につき段ボール1箱分。

寮や新庄の行く先々へ連日殺到する若い女性ファンは、「新庄ギャル」と報道された。

寮の前の混雑により球場からの帰寮もままならない状況となった際、新庄は、ホテルに住んでいた。

本塁打性の打球が応援旗に当たり二塁打と判定

1995年:プロ5年目、新庄は、横浜の佐々木主浩から左翼フェンス最上部に大飛球を放った。

この打球が、観客が振っていた応援旗(新庄の名前入り)に包まれた後にグラウンドへ落下し、新庄は三塁まで達した。

審判は、旗による妨害がなければ競技はどうなったかを判断し、二塁打と判定した。

この判定により、グラウンドに多量のメガホン、ごみ、太鼓、ごみ箱が投げ込まれた。

グラウンドへの、侵入者も出る事態となり、出場選手は一旦ベンチへ引きあげた。

引退宣言騒動

1995年:プロ5年目オフの11月19日、契約更改会見にて新庄が突然、現役引退を宣言した。

本人は引退理由を「野球に対するセンスがないって見切った」と説明した。

その後、真の引退理由が、マスコミ各社によって報じられた。

監督コーチへの不信感や、横浜ベイスターズへのトレードを拒否されたことなどが、推測された。

セ・リーグ会長や阪神球団から説得を受けた新庄は、病気が悪化した父親を勇気づけるために現役続行を決断した。

野球以外も本気を出して怪我をする

新庄は、1997年:プロ7年目、TBSの『スポーツマンNo.1決定戦第4回プロスポーツマン大会』に出場した。

モンスターボックス(巨大跳び箱)に挑んだ際に、左膝を強打負傷した。残りの競技はリタイア。

後日、ゴールデングラブ賞授賞式では、立っているのも辛い状態だった。

投手に挑戦したが大谷にはなれず

1998年:プロ8年目、秋季キャンプから外野手との兼務(二刀流)を目指して投手としての練習を開始。

投手挑戦は、新庄自身も乗り気だった。

発案者である野村監督は、こう話していた。

「あれだけの強肩の持ち主。どんな球を放るか元捕手として純粋に興味がある」

「下半身の使い方を覚えたら150km/hは出る」

翌年オープン戦、2試合に登板するも左膝を痛めたため、投手挑戦はあっけなく断念した。

敬遠球をサヨナラ安打

1998年:プロ8年目、巨人との首位攻防戦で、12回裏同点一死、一・三塁の場面で、新庄に打順が回ってきた。

巨人は、塁を埋めるため、敬遠を選択し、投手槇原は、ボール球を投げた。(当時、申告敬遠はないので4球、ボールを投げる必要があった)

新庄は、槇原が投げたボール球が、やや甘く、ストライクゾーンに近かったのを見逃さなかった。

2球目の外角高めボール球に飛びつくようにして打ち、サヨナラヒットとなった。

当時から20年以上たち、槇原は、自身のYouTubeチャンネルで、ゲスト出演していた新庄に、当時のことを語っている。

「あの時、新庄は、間違いなく、バッターボックスから足が全て出ていた。あれは、反則でヒットは認められない」

新庄は、爆笑しながら、あっさりと、反則だったことを認めた。

かぶりもの

日本ハム時代、かぶりもの(マスク)を着用してシートノックを受けるパフォーマンスを、時折行った。

かぶりものは、スパイダーマン、カエル、ゴレンジャーなどがあった。

当初、かぶりものをした試合は、負けなしだったが、西武戦で、初めて負けてから、かぶりものは封印された。

引退した年のパフォーマンスショー

2006年は、新庄の発案で「ファイターズ超満員大作戦(43,000プロジェクト)」が決行された。

バイク入場ショー、ゴンドラ登場、イリュージョンショーなどが、新庄自らの演出・出演で行われた。

妻大河内との突然の離婚

現役引退した2006年、新庄は、夫人との離婚を自身の公式サイトにて連名で発表した。

離婚の際に、新庄は妻に、「俺も意味分からないけれど、とにかく離婚したい」と説明した。

離婚から10年以上たって、テレビ番組でこの真相発言が取り上げられた際、司会の坂上忍が「普通だったら訴えられますよ」と呆れていた。

襟付きアンダーシャツ問題

新庄が、引退した年、ユニフォームの下に着用していた襟付き練習着が、マナーの問題で物議を醸した。

対戦相手だったソフトバンクの王監督から苦言を呈され、審判団から、以降の試合での着用を禁じられた。

その17年後、新庄は、日本ハムの監督となり、当時の雪辱を晴らした。

限定期間ユニフォームを自らデザインし、選手全員に着用させ、ファンにお披露目した。

そのユニフォームのインナーは、さらに激しく進化した「襟付きアンダーシャツ」だった。

以上が、新庄剛志さんの実績や面白エピソードでした。

最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。

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