選手紹介

【ハマの番長】三浦大輔の実績&面白エピソード!リーゼントへの執念!

【ハマの番長】三浦大輔の実績&面白エピソード!リーゼントへの執念!

元プロ野球選手、三浦大輔さんの経歴や面白エピソードについて解説します。

三浦は、日本の元プロ野球選手であり、野球指導者です。

現役時代は、横浜DeNAベイスターズ(旧横浜大洋ホエールズ)で、25年間プレーしています。

先発技巧派の右腕であり、抜群の制球力と多彩な変化球を武器に、通算172勝を築きました。

豊富なスタミナ大きな活かした完投力もあわせ持っていて、通算16回の無四球完封を記録しています。

三浦は、2021年には、横浜DeNAベイスターズの一軍監督に就任しています。

この記事では、三浦大輔の「プロ入りの経緯」、「横浜時代(大洋、DeNA)」、「人物像と面白エピソード」の順で説明します。

ぜひとも、最後までお楽しみ下さい!

プロ入りの経緯

三浦大輔は、奈良県橿原市出身で、小学校時代に野球を始める。

幼少期は大阪市玉造で過ごした。父が岡田彰布の後援会のメンバーだったため、幼い頃から岡田と顔見知りだった。

中学時代は目立たず、野球を辞めることも考えたが、3年生の時に投手としての才能が評価され、投手に定着した。

高田商業高校時代に球速が速くなりエースになった。一度は野球に嫌気がさして、1か月ほどズル休みをしたが、監督やチームメイトの説得で復帰した。

甲子園出場は叶わなかったが、プロ野球ドラフトで横浜大洋ホエールズからドラフト6位指名を受けて入団した。

横浜大洋ホエールズ時代

1992年:プロ1年目、三浦は横浜大洋ホエールズの一軍デビューを果たし、初登板では篠塚和典から三振を奪い6人の打者を完璧に抑えた。

翌年、対広島東洋カープ戦でプロ初勝利と初完投を達成。ただ、プロ入り後はピンチになると力んで失敗を繰り返していた。

1994年:プロ3年目の対広島戦で投手コーチ小谷からのアドバイスを受け、冷静な投球ができるようになり、初の完封勝利を挙げた。

1995年:プロ4年目からは先発投手として活躍し、6年目には初の2桁勝利を記録。しかし、日本シリーズでは苦戦し敗戦投手となった。

2000年:プロ9年目、10年目はチームのエースとして安定した成績を残した。

2002:年:プロ11年目には右肘の手術を受けた。翌年は手術の影響で出遅れたが、2004年:プロ13年目は、アテネオリンピックで日本代表として銅メダルを獲得。

2005年:プロ14年目は2桁勝利とタイトルを獲得し、チームのAクラス入りに貢献した。

2006年:プロ15年目は、勝ち星に恵まれず8勝に終わった。ただし、9完投、3完封を達成し、リーグ最多となった。

2007年:プロ16年目には35イニング連続無失点の球団記録を更新した。

2008年:プロ17年目のシーズンオフにFA権を行使した。横浜は主力選手のFA移籍が相次いだ時期であり、三浦自身も出て行きたいと思った。

阪神タイガースからの誘いもあったが、ファンの声を聞き残留を決めた。

2009年:プロ18年目、三浦はリーグ最多の失点と被本塁打を記録しながらも、3試合連続を含む6回の完投でリーグ最多の11勝を挙げた。

翌年の2010年:プロ19年目は開幕前のオープン戦で調子が上がらず、開幕直前に二軍へ降格した。一軍へ復帰後も不安定な投球が続き、3勝8敗と不振に陥った。

2011年:プロ20年目にはチームの勝利記録を更新し、19年連続勝利の球団記録を樹立した。

横浜DeNAベイスターズ時代

2012年:プロ21年目にはDeNAとして、球団初の勝利を挙げ、通算150勝を達成。

2013年:プロ22年目にはチームトップの9勝を記録し、最年長での完封記録を更新した。

その後も現役投手としてプレーしながら一軍投手コーチも務め、NPB最長の23年連続勝利と23年連続安打を達成。

2016年:25年目には投手としてシーズン初の一軍登板を果たし、野手を含めたNPB歴代4位タイの24年連続安打を達成。また、その記録がギネス世界記録に認定された。

この年も一軍として登板しない期間はあったものの、投手コーチとして一軍の遠征に帯同し、二軍で調整を続けた。

三浦大輔は、若手選手の台頭によりシーズン中の一軍登板は僅か1試合で終わり、引退を決意していた。

彼はシーズン2度目の一軍登板で、福留孝介に2点本塁打を打たれて敗北した後、引退を申し出た。

チームがクライマックスシリーズ進出を果たした後、彼はシーズン終了後に引退することを発表した。

球団は、三浦が長く着用してきた背番号18を「準永久欠番」とし、着用にふさわしい選手が現れた場合にのみ継承を認めることを発表した。

2022年から小園健太がこの番号を着用することになった。

最後の試合では、全選手が三浦の背番号18を入れたユニフォームを着用し、三浦の息子による始球式も行われた。

彼は10点を失いながらも6回まで投げ、最後の打席に立った後に降板した。

試合後に引退セレモニーが行われ、三浦は感謝の気持ちを述べたあと、胴上げされた。

彼の引退により、横浜大洋ホエールズ出身の選手は全員引退し、一軍投手コーチも退任する意向を示した。

三浦大輔の人物像と面白エピソード

「ハマの番長」として知られる三浦は、リーゼントの髪型がトレードマークです。

三浦は中学や高校時代に漫画『ビー・バップ・ハイスクール』や矢沢永吉、エルビス・プレスリーに憧れており、プロ入り後もリーゼントを守り続けました。

シーズンオフは皮のジャケットに身を包み、タオルを首に巻いて矢沢の日本武道館でのコンサートに足を運んでいました。

三浦は子供たちとの交流を大切にし、多くのグローブをプレゼントする活動や社会貢献活動を行っていました。

三浦は持病の肝機能障害と闘いながらもプロ野球生活を送りました。一番つらかったのは、シーズン中に投げたいのに投げられなかったことでした。

三浦は、プロレス関係者と深い交友関係があります。

三浦は新日本プロレスの試合でセコンドとして活動し、親しい友人である橋本真也の追悼試合でも登板しました。

また、蝶野正洋や武藤敬司などとの親交も深く、彼らとの写真を自身のブログに投稿しています。

三浦のブログは、三浦と交流のある人々や日常の風景、チームメイトやトレーナー、横浜スタジアムの様子、メディア出演情報、そして彼の飼っていたミニチュアダックスフントの写真などが毎日更新されています。

三浦はほぼ全ての写真を自ら撮影し、利き腕の右肘の制限から左腕で撮影していると語っています。

勝利投手となった日にはブログを更新し、勝利数に応じて白い星を積み重ねています。

三浦は熱狂的な競馬ファンでもあり、競走馬の所有者としても知られています。彼は馬主登録をし、「リーゼントブルース」という競走馬を所有していました。

三浦大輔の実績とエピソード解説は以上となります。

-選手紹介