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清原和博の巨人・西武・オリックス時代の経歴と面白エピソード!

清原和博の巨人・西武・オリックス時代の経歴と面白エピソード!

元プロ野球選手、清原和博さん(以下、敬称略)の経歴や面白エピソードについて、解説します。

清原は、現役23年間、西武、巨人、オリックスでプレーしました。

通算ホームラン525本は、歴代5位の記録です。

高校時代は、甲子園で通算13本塁打の最多記録を持っています。

清原は、主要タイトルの獲得経験がないため、「無冠の帝王」と呼ばれています。

しかし、清原は、高校時代、ドラフト、西武黄金期、巨人への移籍、引退に至るまで、数々の名シーンとドラマをわたし達野球ファンにみせてくれました。

本記事では、「球界の番長」や「お祭り男」と呼ばれた清原和博の経歴やエピソードを、解説します。

ぜひとも最後までお楽しみ下さい!

プロ入りまでの経緯

清原 和博は、大阪府岸和田市出身。

父は阪神ファンで、父以外の家族は巨人ファンで、自身も巨人ファンとして育った。

小学校3年生の時に、岸和田リトルリーグ(硬式野球)に入団した。

中学になると、岸和田シニアリーグに移り、中学2年生でキャプテンとなり、関西シニアで優勝を果たした。

高校は30校近いスカウトの中から、PL学園高校を選んだ。

当時、PL学園は、全寮制であり、集団生活、上下関係は、過酷を極めた。

清原も、日常的に暴力を受けて、涙を流したこともあった。

過酷な練習の中、清原は脱水を避けるために和式便所の水をすくって飲み、生き延びた。

清原は、4月に入学してから、春の大阪府予選大会までの間に、体重が10kg落ちた。

過酷な練習としごきに耐えながらも、清原は、1年生から4番打者を務めた。

1年生の夏から、エース桑田と共に、甲子園大会に5季連続出場を果たした。

1年生の夏:優勝、2年生の春・夏:準優勝、3年生の春:ベスト4、3年生の夏:優勝、という圧倒的な戦績を残した。

清原個人としても、甲子園通算本塁打記録、13本を成し遂げた。

プロ入り前には、巨人か阪神への入団を熱望していた。

運命のドラフト会議当日、巨人は、大学進学を表明していた桑田真澄をドラフト1位で強行指名した。

清原は、阪神を含む6球団から、1位指名を受けた。

抽選の結果、阪神ではなく西武が交渉権を獲得した。

清原は、自宅で涙した。その姿を見て、母親は清原にこう言った。

「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」

清原は、巨人を見返すために、西武入りを決断した。

西武時代:1年目から5年目

1986年:高卒ルーキーイヤー、オープン戦ではプロの洗礼を受け本塁打を1本も打てないまま開幕を迎えるが、打撃フォームの修正を重ねて開幕に挑んだ。

清原は、開幕2戦目で初ホームランを放つと、以降はスタメンに定着し、6月以降はクリンナップを任された。

1年目は、126試合に出場し、本塁打31本、打率.304、打点78で、3部門で高卒新人の歴代最高記録を更新した。

日本シリーズでは、4番を打ち、打率.355(31打数11安打)で、シリーズ首位打者、最多安打を記録して、西武の日本一に貢献した。

2年目、3年目は、130試合フル出場を果たし、完全に主砲に定着。チームは、連続日本一を達成した。

ホームランは、2年目29本、3年目31本と、安定した長打力を発揮した。

4年目の優勝争いの真っただ中のロッテ戦、バット投げ事件が起きた。

清原がロッテ平沼にデッドボールに激怒して、平沼にバットを投げつけた。その後両軍入り乱れての乱闘騒ぎとなった。

清原は、2日間の出場停止処分を受け、連続試合出場がストップした。

5年目は、打率.307、37本塁打、94打点を記録した。打率とホームランは、キャリアハイの成績となった。

チームは日本一になり、オフの契約更改では、当時史上最年少の23歳で1億円プレイヤーになった。

西武時代:6年目から11年目

6年目は、打率.270、23本塁打、79打点だった。

前半戦で、35試合ホームランがでない極端なスランプに陥った。

チームは、2年連続の日本一を達成した。

7年目は、打率.289、36本塁打、96打点だった。出塁率.401で、最高出塁率のタイトルを獲得した。

この年、清原は、史上最年少となる24歳10か月で200号本塁打を達成した。

チームは、日本一に輝くも、清原は、シーズン中、絶不調に陥った。

野村ヤクルトに研究され、17打席連続ノーヒットとなり、清原は日本一の瞬間をベンチで迎えた。

8年目は、打率.268、25本塁打、75打点と、清原にしては、低調な成績だった。

チームは、リーグ優勝を果たすも、日本シリーズではヤクルトに敗北した。

1994年、プロ9年目、打率.279、26本塁打、93打点だった。

日本シリーズで、桑田から第1戦で先制ソロ、第5戦でバックスクリーンに2打席連続で本塁打を放った。

清原は、因縁の巨人相手、ライバル桑田相手に、大奮闘するも、チームは巨人に敗れた。

10年目は、打率.245、25本塁打、64打点と、右肩脱臼の影響もあり、低調な成績だった。

チームも、リーグ優勝を逃し、この年、1995年をもって、西武の黄金時代に終止符が打たれた。

プロ11年目は、打率.257、31本塁打、84打点だった。

8年ぶりに全試合に出場し、4年ぶりに30本塁打以上を記録した。

この年のオフ、清原は、FA宣言し、巨人と阪神が名乗りを上げた。

提示された条件は、巨人よりも阪神の方がはるかに良かった。

阪神の条件は、「10年契約・合計36億円・監督および球団社長への終身雇用」だった。年俸は、3.6億円で、前年の約1.5倍だった。

巨人の条件は、「2年契約・合計5億円程度」だった。

しかし、清原は、巨人を選んだ。

高校3年生の時に抱いた、巨人への強い思いを捨てきれなかった。

絶対に見返してやろうという、怒りにも似た悔しい気持ちはあったが、それは巨人が清原にとって、憧れの存在だったからだ。

清原は、30歳にして、少年時代に抱いた片思いを実らすことができた。

高校時代から西武時代の面白エピソード

高校時代は竹バットでホームラン

PL1年生の時、清原は、先輩たちのバッティングをみて、大したことないと思った。

清原は、打撃練習で、簡単に柵越えを連発し、上級生からの嫉妬を受けて、殴られる日々だった。

当時の1年生は、飛距離が出ないように、竹バットを使わされていた。

ライトへの流し打ちは「生きるため」

打撃練習で、ホームランを打つと、先輩に殴打されるため、清原は、飛距離が出ないようにライト方向に流し打ちした。

清原の甲子園初ホームランもライト方向への流し打ちだった。

清原は、ライト方向へうまく打つコツを聞かれても答えようがないらしい。

なぜならそれは、自分の身を守るため、「生きるため」に選択したことだから。

デッドボールを避けないのはPL仕込み

PL時代、寮で上級生が食事をする際、1年生に不手際があると茶碗を顔面に投げつけられた。

避けるとひどく殴られるため、わざと当たりにいった。

清原は「のちにプロで死球を避けずに当たりに行く姿勢に繋がった」と語っている。

プロ2年目の日本シリーズで涙

1987年の日本シリーズ第6戦、西武があとアウト1つで日本一となる場面だった。

一塁守備についた清原が、涙を流し、試合が一時中断となった。

清原は、巨人ベンチを見た時に、王監督の姿が目に入った。

清原は、ドラフトの時のことを思い出したら涙が止まらなくなった。

西武のCM解禁第1弾:エースコック

1993年、西武で、それまで禁止されていた所属選手のCM出演が解禁となった。

第1弾として清原がエースコックスーパーカップのCMに起用された。

西武退団時の巨人と阪神の口説き文句

清原が、FA宣言した際に、阪神吉田監督と、巨人長嶋監督の口説き文句が話題となった。

吉田監督:「阪神の縦縞のユニホームを、横縞に変えるような気持ちがある」

長嶋監督:「思いっきり、僕の胸に飛び込んできなさい」

清原は、思いっきり、長嶋監督の胸に飛び込んだ。

巨人時代:12年目から20年目

1997年、プロ12年目、巨人移籍1年目。

開幕から4番つとめ、打率.249、32本塁打、95打点の成績だった。

当時のリーグ新記録152三振を記録し、一時は応援ボイコット(応援歌・コールなし)も受けた。

勝負どころで、松井敬遠、清原凡退というシーンが何度かあり、ファンやマスコミからバッシングを受けた。

「負けたら清原のせい、勝ったら長嶋監督と松井のおかげ」と言われ、清原自身、心が押しつぶされる思いをしていた。

プロ13年目は、打率.268、23本塁打、80打点だった。

清原は、セ・リーグの厳しいインコース攻めに対応するため、大幅な打撃フォーム改造を敢行した。

最短距離で球を捉えるため、垂直気味に立てていたバットを寝かせ、グリップも一握り余すなどプライドを捨てて再起に懸けた。

シーズン前半は、好調だった、左太腿肉離れなど故障もあって、次第に調子を落とした。

プロ14年目は、度重なる怪我の影響で、出場試合数は86試合に留まった。

打率.236、13本塁打、46打点と、プロ入り後最低の成績だった。

連続20本塁打記録は、13年で途切れた。

プロ15年目も怪我の影響で、75試合の出場に留まり、打率.296、16本塁打、54打点だった。

チームは、清原巨人移籍後、初優勝し、日本シリーズも制した。

この年、モデルの木村亜希と結婚した。

プロ16年目は、巨人移籍5年目であり、5年契約の最終年だった。

崖っぷちの状態で、結果を残し、打率.298、29本塁打、121打点という巨人入団以降、自己最高の好成績だった。

特にチャンスに滅法強く終盤まで打点王争いをした。

シーズンオフに、年俸大幅アップ(3億円から4.5億円)と、4年契約を勝ち取った。

プロ17年目は、55試合出場に留まり、打率.318、12本塁打、33打点だった。

怪我をおして出場した日本シリーズで、古巣西武と対戦し、松坂などから2本のホームランを放ち、日本一に貢献した。

この年、2002年が清原にとって、プロ最後のシーズ優勝と日本一になった。

プロ18年目は、故障に悩まされ続けながらも114試合に出場し、打率.290、26本塁打、68打点の成績を残した。

清原は、この年が、最後の100試合以上の出場になった、

プロ19年目は、6月に死球を受け、骨折で長期離脱した。

40試合の出場に留まり、打率.228、12本塁打、27打点と成績も低迷した。

この年、通算2000本安打を達成した。

シーズンオフには、戦力構想外の話題が浮上するが、オーナーへの直談判などを通して、なんとか残留を果たした。

プロ20年目は、96試合に出場し、打率.212、22本塁打、52打点だった。

成績低迷もあったが、首脳陣との確執も表面化した。

8月4日に、ホームランを放って、ダイヤモンドを一周した後、監督堀内やコーチ、選手とのハイタッチを拒否した。

7番で起用されたことへの不満を現したとされている。

8月13日に登録抹消されたこともあり、これが、巨人時代最後のホームランとなった。

清原は、2005年、シーズン終了を待たず、10月1日に、同シーズン限りでの退団が決まったことが球団から発表された。

オリックス時代:21年目から引退まで

オリックスの監督を退任し、シニアアドバイザーに就任したばかりの仰木彬から、清原に電話があった。

「お前は大阪で育った人間や。大阪に育てられた人間は、最後は大阪に恩返しをしないといけない。そやから、大阪に帰ってこい。お前の最後の花道は俺が作ってやる」

その後、何度も仰木に説得され、清原は、オリックス入団を決断した。

入団会見で、「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。

2006年、オリックス1年目、打率.222、ホームラン11本、36打点だった。

故障による離脱を繰り返し、出場試合は、67試合に留まった。

オリックス2年目は、キャンプ中に左ひざを痛めて離脱し、2月と7月に、2度の左ひざの手術を行った。

この年、プロ入り以来初めて、一軍試合出場なしに終わった。

プロ最終年の2008年、手術の影響で2軍調整が続いた。

7月に1軍合流するも、このようにコメントし、同年限りでの現役引退を表明した。

「こんな状態なので、来年はグラウンドに立てないと思う」

9月29日、古巣西武との最終戦終了後、オリックスと西武の両軍選手が清原を胴上げするセレモニーが行われた。

10月1日、シーズン最終戦、対ソフトバンク戦が清原の引退試合となった。

清原は、イチロー、下柳剛、桑田真澄、PL学園時代の監督中村順司らが見守る中、4番・指名打者で先発出場した。

第3打席で、右中間に二塁打を放ち、打点1をあげた。これが、現役最後の安打・打点となった。

対戦投手の杉内は、4打席18球全てストレートで勝負した。

最終打席で空振り三振に終わった清原は、杉内にヘルメットを脱いで一礼した。

試合終了後の引退セレモニーでは、長渕剛が、清原の入場テーマ曲「とんぼ」をアコースティック・ギターの生演奏で熱唱した。

引退挨拶では、「今日、引退させて戴きます。全国のプロ野球ファンの皆様、23年間、応援どうもありがとうございました」と涙ながらに締めくくった。

清原は、現役引退後、野球評論家やタレントとして活動している。

巨人時代以降の面白エピソード

鹿児島・最福寺にて護摩行

巨人3年目、清原は、成績低迷と度重なる怪我により、土俵際に立たされていた。

精神を鍛えるため、最福寺に5日間泊まり込み、炎の前で2時間も真言を唱える「護摩行」という修行を行った。

両耳にダイヤのピアス

2005年、巨人最終年、清原は、両耳にダイヤのピアスを装備した。

その理由を清原は、「巨人軍に契約交渉の席で煮え湯を飲まされ、その悔しさを忘れないために刺青の代わりにつけた」と述べている。

このダイヤのピアスは、巨人OB、他球団OBからも評判は悪かった。

「尻の穴が小さい」発言

2005年、阪神藤川がフルカウントまで追い込んだ後、フォークを投げてきて三振したため、相手バッテリーに対して、このような品のない発言をした。

これに対し、阪神岡田監督は、「藤川はその前に直球勝負していた。空振りした清原が悪い」と反論した。

吉本新喜劇に出演

オリックスに移籍した2006年の開幕前、オリックス球団が吉本興業と業務提携を結んでいたことから、吉本新喜劇に出演した。

清原の友人関係

デーブ大久保とは、西武時代からの先輩・後輩の付き合い。

デーブ大久保がプロ2年目に入ってきたのが清原で、一緒に飲み歩いた仲だった。

清原は、現役引退後も、大久保の経営する居酒屋に訪れたり、大久保のYouTubeチャンネルに出演したりしている。

佐々木主浩は、清原と親友関係にある。

清原が違法薬物の所持・使用の罪で、裁判になった際、情状酌量の証人として裁判所に出廷したのが佐々木。

佐々木は、「野球人として、一緒に野球を通して、野球を通じた更生の道を探りたい」と証言を行った。

清原の入れ墨の除去手術を行わせたのも佐々木。

一時的に住む場所がなくなった清原に、マンションを手配して、敷金・礼金を払ったのも佐々木。

清原の逮捕後、清原が球界で唯一連絡をとりあっていたのが佐々木。

当時の佐々木のことを清原がこう語っている。

「定期的にうつとか病気もあったんで、何度も何度も家から連れ出してくれて、飯食うぞ、飯食うぞ、飯食うぞって。」

「今あるのはササのおかげです」

NPBデッドボール記録

清原は、NPBの通算死球回数196という歴代1位の記録を持っている。

当然、死球を受けた際のダメージについても一番詳しい。

解説をしている時には、死球を受けて、痛がる選手を見ても「実際は大丈夫でしょう」と断言することがある。

以上が、清原和博さんの経歴と面白エピソードでした。

最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。

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