選手紹介

【赤ヘルを一度脱いだ男】新井貴浩の実績&面白エピソード!結局、新井はすごかった

【赤ヘルを一度脱いだ男】新井貴浩の実績&面白エピソード!結局、新井はすごかった

元プロ野球選手、新井貴浩さんの経歴や面白エピソードについて解説します。

この記事は、「広島カープ入団の経緯」、「広島カープ入団後」、「阪神タイガース時代」、「広島カープ復帰後」、「人物像と面白エピソード」の順で説明します。

ぜひとも、最後までお楽しみ下さい!

プロ入りの経緯

新井は、広島工業高校では甲子園出場の経験はなし。大学は駒澤大学に進学。

1998年のドラフト会議で、新井は広島カープから6位で指名された。入団前には大学の先輩である野村謙二郎にバットスイングを見せ、その推薦もあった。

当時は守備に課題があり、周囲からは驚きの指名となりましたが、将来の4番候補として期待されていた。新井自身も意気込みを語り、「空に向かって打つ」と宣言しました。

広島カープ入団後

広島時代の新井貴浩は、入団後に大下ヘッドコーチから厳しい指導を受け、自身を甘やかさず徹底的に鍛えられた。

プロ入り直後は金本や江藤の打撃を見て自身のレベルの低さを感じ、不安を抱いた。しかし、1999年には新人ながら53試合に出場し、7本塁打を記録。

江藤の移籍後は「ポスト江藤」として期待されるようになり、2000年には16本塁打を含む活躍を見せた。

2001年:プロ3年目からはレギュラーに定着し、打率.284、18本塁打、56打点を記録。

2002年:プロ4年目には全試合にフル出場し、28本塁打を打ち、オールスターに初出場。

2003年:5年目からは4番に座ったが、打撃不振に陥いった。

2005年:7年目は内田コーチの指導でフォーム改造し、打率.305、本塁打王を獲得。ベストナインも初受賞し、復活を果たした。

2006年:8年目には護摩行合宿を単独で行い、WBCの日本代表にも選出された。シーズンでは100打点を記録したが、選球眼の悪さが指摘された。

2007年:9年目には28本塁打、102打点を記録し、守備でもリーグトップの守備率を記録。

新井は前年まで広島に残留する意向を示していたが、厳しい環境での挑戦が自分を変える機会だと感じ、FA権を行使することを決めた。複数の球団が獲得に興味を示したが、阪神の存在が大きく、2度の交渉を経て入団を決めた。

移籍の最大の理由は金本と再び野球をすることへの強い思いであり、広島への愛着と未練も感じられる発言をしていた。

阪神タイガース時代

2008年:プロ10年目、新井は古巣・広島との対戦で勝利に貢献し、広島ファンからはブーイングを受けながらも好成績を残した。

しかし、腰痛に悩まされるようになり、北京五輪の日本代表に選ばれたものの、腰椎の疲労骨折が判明し、野球ができなくなる覚悟で五輪に臨んだ。シーズン終了後、新井はゴールデングラブ賞を受賞したが、成績は落ち込んだ。

2009年:11年目は腰の状態を理由にWBCへの参加を辞退し、リーグワーストの成績を残した。

2010年:12年目、新井は阪神の4番に座り、自己最高の成績を叩き出した。弟の良太も阪神に移籍し、兄弟でプレーすることとなった。

2011年:13年目、新井は震災後の開幕延期を求める労組プロ野球選手会会長として奔走し、開幕戦ではサヨナラ安打を打った。打点王のタイトルも獲得し、義援金を募る活動も行った。

2012年:14年目、新井は右肩の怪我に悩まされ、打撃不振に陥った。良太が4番を打つこととなり、新井は6番・一塁で出場することが多くなった。

2013年:15年目はスタメンの機会を得て、通算1000打点を達成し、オールスターゲームでMVPに選ばれた。しかし後半戦は成績が落ち込み、スタメンから外されることもあった。

2014年:16年目にはポジション争いが起こり、新井は代打や控えとしての出場が増えた。シーズン終了後、大幅な減俸を通告され、新天地を求めて自由契約となった。

広島カープ復帰後

2015年:17年目、広島は右打ちの長距離打者を補強するために、阪神を退団した新井を獲得した。新井は即座に広島と契約し、プロ入り以来着用していた背番号25を28に変更した。彼は7000万円の提示年俸を下回る2000万円で契約を受け入れた。

新井は右肘関節炎に悩まされながらも開幕戦で復帰し、大歓声を浴びた。彼は代打として起用されることが多かったが、後に4番に定着し、チームの主力となった。

シーズン終了後には3倍の推定年俸6000万円で契約を更新した。

2016年:18年目、新井は通算2000安打と通算300本塁打を達成し、チームの快進撃に貢献した。広島は25年ぶりのリーグ優勝を果たし、日本シリーズにも進出したが、優勝はならなかった。新井自身は打点王として活躍し、2度目のベストナインとリーグMVPを受賞した。

2017年:19年目、新井はスタメン出場を減らし代打での起用が増えたが、要所で活躍し記録も更新した。彼は適時二塁打や本塁打を打ち、安打数で歴代最多タイとなった。さらに通算3500塁打や通算2284試合出場も達成した。

チームもリーグ連覇を果たし、新井は100試合で3割近い打率を残した。しかし、クライマックスシリーズで敗れて日本シリーズ進出を逃し、試合後に現役続行を表明した。

2018年:20年目、シーズン終了後に現役引退を表明した。

引退後、新井を讃える広告が掲載され、話題を呼んだ。中国新聞に新井を讃える全面広告が2ページにわたり掲載された。

表面は「新井ブレーキ」「絶好球見逃す」「流れを変えた空振り」など新井が酷評されている記事のスクラップ画像となっている。

しかし、裏面をめくるとガッツポーズをする新井の姿に「結局、新井は凄かった。」「広告主 黒田博樹」という文言が添えられたものとなっている。この広告は新聞広告賞に選ばれた。

新井の人物像と面白エピソード

新井は幼少期から広島カープの大ファンで、パジャマにもチームのユニフォームを着ていた。

大学時代は堀内恒夫の長女と同級生で、野球部の合宿所では堀内の長男と同室だった。

彼は温厚で優しい性格であり、広島時代には先輩からいじられることが多かった。

特に金本知憲とは「新井イジリ」と呼ばれるいたずらがあり、金本による「ピンポンダッシュ」の被害者でもあった。

阪神移籍後は「辛いさん」というあだ名が広まり、併殺打は「ツラゲ」と呼ばれるようになった。

現役時代は護摩行を自主トレーニングに取り入れており、引退後も野球解説者として活動する際に行っていた。

彼は在日韓国人であったが、2004年に日本に帰化し、本名は朴貴浩であった。

自身の応援歌や鳥谷敬の曲が好きであり、漫画『はだしのゲン』からの言葉「ふまれてもふまれても、強くまっすぐ伸びる麦になれ」という言葉を気に入っていた。

新井貴浩の実績とエピソード解説は以上となります。

-選手紹介